l 十勝組 2001年11月~2002年10月の法話


十勝組 2001-2002年の法話

(2001年11月~2002年10月)


(法話タイトル) (地域) (所属寺) (氏名) (年・月)
「自分こそ・・」 中札内村 真光寺住職 桃井浩純 2001.11
「肉や魚、野菜が阿弥陀さま」 新得町 新泉寺副住職 高久教仁 2001.12
「仏さまに手を合わせる」 帯広市 勝興寺住職 小沢真了 2002.01
「いない・いない・バァー」 芽室町 願恵寺副住職 藤原昇典 2002.02
「聞くというは信心をあらわすみのりなり」 鹿追町 浄教寺住職 池上恵龍 2002.03
「『しあわせ』の見える目」 足寄町 照経寺住職 鷲岡康照 2002.04
「心の拠り所」 新得町 立教寺住職 千葉照映 2002.05
「生死の苦海」 鹿追町 玄誓寺住職 上本周司 2002.06
「逆境こそ 我 はげみなりけり」 帯広市 佛照寺住職 藤本実円 2002.07
「いのちのきずな」 幕別町 顕勝寺住職 芳滝智仁 2002.08
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 帯広市 光心寺副住職 桃井信之 2002.09
「命のつきる時」 清水町 寿光寺副住職 増山孝伸 2002.10
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「自分こそ・・・」

中札内村 真光寺住職 桃井浩純 (2001年11月)

 私は、人間は齢[とし]をとるほどに、円満で、穏やかになるだろうと・・・・。そして、柔軟でやさしく、物わかりがよくなっていくものだと思っておりました。また、そうなりたいとも思っておりました。

 ところが、お聖教に「凡夫というは無明煩悩[むみょうぼんのう]、我等がみに満ちて、欲も多く、怒り、腹立ち、そねみ嫉む心多く、暇無くして」とあり、しかも「臨終の一念に至るまで留まらず、消えず絶えず」と聞かされ、命たえるまで煩悩を持ち続けていかねばならないということを味わいさせていただきました。

 凡夫というは、この弱い私のことであり、悪人とは、縁があったならどんなことでもする私のことを指すのです。このことは、今までの私の念い、願い、生きざま等を根底からくつがえすほどのできごとでした。仏さまの物差しは、ずいぶん思い上がっていた私であったということを気づかせてくださいました。

 先日、ある方が「母親と妻の間にいるのも大変ですよ。右を向いて頷き、左を向いて頷き、間にいる私が我慢しておれば、どうにか家の中が収まっているのですがねぇ」と言われました。我慢すること、辛抱することは良いことですが、少しでも情勢が変わってくると、私だけではない。母親も、妻も、それぞれが自分ほど我慢して、辛抱している人はいない。自分こそが一番我慢、辛抱しているのだと・・・・・・となります、質の悪い人間の部類になってしまいます。

 山陰の妙好人の源佐さんがおもしろいことを言っておられます。

「人間は、こそを自分の方へ集めたがる生き方をしがちだ。このこそを相手にみなあげてしまう生き方をすれば、気が楽に生きられる。嫁がしっかり家を守ってくれればこそという風にだ。このこそを必要以上に自分の方へ集めたがる人をこそ泥というだぞ。」

 こそ泥とは、こそをみな自分の方に盗んでしまう人のことかと感心させられました。

 みなさんは、こそをみな相手に差しあげて、楽な気持ちで生活をさせていただきましょう。

「肉や魚、野菜が阿弥陀さま」

新得町 新泉寺副住職 高久教仁 (2001年12月)

 私たちが信仰している仏さまは阿弥陀如来です。

 阿弥陀さまは、一切私に注文をつけられません。「賢い人間になれ、うそをつくな、殺生をするな、酒を呑むな」と、そのようなことが出来ない私であることを知り抜いて「そのままでよいから弥陀に任せよ、弥陀をたのめ」と、いつも私を呼びかけて下さっています。

 しかしながら私は、中々その呼び声が信じられません。

 私の世界は

「私がこれだけのことをしたのだから、これだけのものが返ってくるはずだ。私がこれだけのことをしてあげたのだから、あなたは私にお礼を言うべきだ。私の言うことに従うならこれだけのことをして上げよう。」

 というように、「して上げた」とか「して上げる」とか、自分の力で他のものを支えてやっている顔をしているのが私です。見返りのないことを進んで行うことのない私です。

 実はこの私も阿弥陀さまの救いや恵みにどっぷりと浸かって生活をさせて頂いているのです。ただ、そのことに気がつかないで居るだけなのです。見返りを求めることなく私を支えてくれているものが、身の回りに沢山あることでしょう。

 スーパーマーケットに買い物に行って、肉や魚、野菜を買う時に、店員には「ありがとう」とお礼を言いますが。買った食べ物に「ありがとう」とお礼を言う人がいるでしょうか?

 一般に私達の世界では、お金を通してものを求めていますが、私たちに生命[いのち]を投げだす食べ物たちには一銭のお金も入りません。それどころか、不平も言わずに私たちの血となり、肉となり、いのちとなって下さるのです。

 私たち日本人の食前の言葉である「いただきます」には、その上に「あなたの生命[いのち]を」という言葉がかくれています。この言葉には、食べ物の生命[いのち]に対する私たちの謝罪とお礼が込められています。「めしを食う」のではなく「ご飯を頂戴する」心なのです。

 私が気が付こうが気が付くまいが、常に私を支えて見守ってくださっている方が阿弥陀さまです。いま私の目の前にある肉や魚、野菜こそが阿弥陀さまであります。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

「仏さまに手を合わせる」

帯広市 勝興寺住職 小沢真了 (2002年1月)

 仏さまに手を合わせるとは、どういうことでしょうか?

 今、一度問いかけさせていただきましょう。

 私達は手を合わせて、仏様にお願い事、たのみ事をしてはいないでしょうか?

 手を合わせるとは、仏様に、有りのままの私のすがたを写し出させていただく事です。

 そして、仏様のお心をお聞かせいただき、一心[いっしん]に二心[ふたごこころ]を持たずに真実のお心を聞いて、我が身を振り返えり、又、お誓いさせていただくすがたであります。

 お願いたのみ事をすると、ろくな事がありません。

 良い結果が出れば慢心[まんしん]になり、悪い結果がでれば怒りさらには罵声[ばせい]となります。そこには何も残りませんし、進歩もありません。

 しかし、仏様に手を合わせて、お誓い、反省する事から良い結果が出れば、「ありがとうございます」と、すなおに感謝の心が顕[あらわ]れますし、また、悪い結果が出ても反省の心が芽ばえます。

 仏様に向かって手を合わすすがた形は同じであっても、手を合わす私自身の心によって、これ程の違いがあるのです。

 私達は、ともすれば、仏様に物々交換的に手を合わせてはいないでしょうか?

 仏様は、私の心の鏡であります。そして、その心の鏡はいつも私の目の前にありながら私達はその鏡の前に座ろうとはしないのです。

 自分がこまった時にだけ思い出してお願い参り、たのみ参りばかりしてはいないでしょうか?

 今日から、今すぐ思い当たる人がいるならば、この法話を切っ掛けにあらためましょう。

 手を合わせる仏様にお参りをするとは、仏様のまことのお心をお聞かせいただき、今生きている私が、これから生きていこう、どのように生きていこうかと聞かせていただくことです。

「いない・いない・バァー」

芽室町 願恵寺 副住職 藤原昇典 (2002年2月)

 お釈迦様は私達の生き様の事を四つの漢字でお示しくださいました。「生」「老」「病」「死」の四つで、生まれること、病にかかること、そして、オギャーと生まれても、命あるものは百パーセント死んでいかなければならない命を生きている事です。その四つの漢字を縮めて、「生死」[しょうじ]とお伝えいただいておりますが、浄土真宗を開かれた親鸞聖人はこの何一つ思い通りにならない私の生き様を明らかにするために阿弥陀様から賜る[たまわる]お念仏を、私自身と問い訪ね、伝えて行って下さいとお示しくださいました。

 私達は限り有る人生を送っています。誰もが生まれたら、いつ死ぬかは分からない命を生きていることは誰もが知っていますが、さて、それはいつ頃、誰から教わったことでしょう。

 ある児童心理学の先生がおっしゃるには、赤ちゃんが生まれて半年から一才半位の間にすでに学習していると言います。

 生まれて間も無い赤ちゃんの笑顔が見たいためによく簡単な遊びをいたしますが、「いない・いない・バァー」がそれです。赤ちゃんにとっていつも目の前に居る人がお父さんか、お母さんか分からないけれど、心休まる方が目の前にいたのが、「いない・いない」と目の前から消えてしまうことはとても怖いことで、「いない・いない」が長ければ長ければ長いほど死の恐怖として心に焼きつくとといいます。

 そしてその後[あと]に「バァ」とやると満面の笑顔を見せますが、これは会えた喜び、生きる喜びとして学習すると伝えて下さいました。簡単な遊びですが、とても大切なことではないでしょうか。私達はそのいわれを知らずにいましたが、先人[せんじん]の知恵と思いが込められていたことに驚きます。

 『限られた命』を生きていると知らされながら、若さと健康に自らの命が見えずに歩み進めている中に他の人が死んで行く事はよくわかっていても、自分の命の有り様に気づけなかった、どうか生死[しょうじ]の真っ只中[まっただなか]に生きていることに気づいてくれよと言う叫びが、「いない・いない・バァー」という簡単な遊びに込められていたのではないでしょうか。

「聞くというは信心をあらわすみのりなり」

鹿追町 浄教寺 住職 池上恵龍 (2002年3月)

親鸞さまのお書物に「聞くというは信心をあらわすみのりなり」のお言葉があります。

 第8代門主の蓮如さんも「ただ、信心は聞くにきわまる」と聞くことの大切さを繰り返しおっしゃっています。

 また、聞くにあたって「角[すみ]を聞け、詮ある所を聞け」といい、言葉の奥にある大事な中味を聞くことをを勧めています。

 そのために、御文章[ごぶんしょう]のように、何度も何度も同じことを繰り返し繰り返し読み、聞くことを勧めそのことを通して阿弥陀さまの私にかけてくださる願いの中味を伝えようとされたのです。

 先日、町内の「油絵の講習会」に参加しました。

 僅[わず]か4回の短期間という気軽さもあって、初めて、油絵に挑戦しました。布地の上にエンピツで下絵を描き、その上から絵の具で描いてゆくのですが初ものの私には難しく、形も、色合いもままなりませんでした。それでも最終回の4回目頃にはなんとなく絵になってきたものです。

 面白[おもしろ]いことに、それまで、僅かな色あいにしか見えなかった対象が何十回と見つめる中で、様々な色が存在することに気付かされてきたのです。描き始めの頃とは印象が随分違って見えてきたのです。

 そのことは、同時に、見る度に違って見える私の目のあやふやさを知らされてきたことでもあります。

 このことは、本を読む場合でも言えることで、時間をおいて読み直したときに新しい発見や、違った印象を受けることがあります。

 法話を聞くにあたっても、年齢や生い立ちの違いによって、聞こえ方が違ってくるでしょうし、同じ人が同じ内容を聞いても、時、場所、その時の心模様によって、違いが生じたりします。

 人生の喜怒哀楽[きどあいらく]を多く経験する中で、当てにならない自分の目、耳、考え、行いが明らかに知らされると共に、阿弥陀さまの私を浄土へ往生[おうじょう]させんとする願いが確かであるこが聞こえてくるのです。

 南無阿弥陀仏と念仏を申しては教えを聞き、聞いてはお念仏を申す日暮らしの中で、共々に浄土への依を歩ませていただきましょう。

「『しあわせ』の見える目」

足寄町 照経寺 住職 鷲岡康照 (2002年4月)

 昨年の暮れに、運転免許証の更新のため、講習を受けてきました。講師の方が、人間の目の不確かさ・目の錯覚を知らせるために、数枚の絵を示し、お話し下さいました。

 そのうちの1枚の絵は、白い紙に黒い壷が描かれています。しかし、見方を変えますと、2人の人間が向き合っているように見えてきます。

 又、もう1枚の絵は、魔法使いのおばあさんの横顔のように見えますが、これもその鼻を「顎」と思い見つめますと、髪の長い若く・きれいな娘さんを、斜め後ろから見たように見えてきます。

 1枚の絵が、見方によってまったく違うように見えるのです。

 話を聞きながら、私たちが日々暮らす中にも、同じことがいえるなあと思いました。どのような、ものの見方をするかによって、見えてくるもの・味わい方がまったく違うと思うのです。

 俺が俺がと我を張り、生まれてきたのも・生きているのもあたり前、これでは「喜び」はありません。自分の思い通りにならないと人を悪くいい、「周りが悪い」「日が悪い」「方角が、墓相が悪い」、これではきりがありません。そして、人の欠点はよく見えるが、自分の欠点は見えにくい。人に厳しく、自分に寛大。

 これでは「すみません」と頭が下がるはずもありません。日本語の中で最も美しい言葉が「ありがとう」「おかげさま」「もったいない」「すみません」が上げられてありました。

 東井義雄先生は、「『お陰様を見る目』が開けてくれると、すばらしい世界が開けて下さるのです。その目がないと、幸せの真ん中にいても、幸せなんか見えないのですね。」と言われました。

 私たちの目は、太陽の・電気の光の力を借りて、物を見ることができるように、仏様の光に照らされ・つつまれて、「お陰様」が見える目・「幸せ」の見える目が開けるのです。

「心の依り所」

新得町 立教寺 住職 千葉照映 (2002年5月)

 人間は誰しも心の中に、何か支えとなるものが必要なのではないでしょうか。

 「独生・独死・独去・独来」一人生まれ一人死に一人去り一人来る、そういう存在だからこそ支えがなければ、そして心に灯火がなければならないのではないでしょうか。

 その心の中の依り所となるものがなんであるのか。それは個人個人異なっているでしょうし、又、考え方も違いますから何であってもかまわないと思います。

 例えば、私はパチンコをすることが生き甲斐なんです、いや私は車を買うことが趣味でそのために働いているんです、いやいや私は、愛する人の為に尽くすことが生き甲斐なんです、と色々あろうかと思います。

 しかし、それが永遠の依り所となるだろうか、決して変わることのない依り処となるのですか、と問われたときいささか疑問が残ってしまいます。

 果たして人間によって造られたものが、私にとって依り処となり、私にとって永遠に変わることのない心の灯火となり得るのでしょうか。人間によって造られたものというのは必ずいつかは消滅してしまうというのが仏教の原則であります。

 私たちはそのいつかは消滅してしまうものばかりを追い求めて毎日アクセクと働き又、それが生き甲斐だと思いこんでいるのではないでしょうか。

 親鸞聖人の書物の中には至る所に「真実」という言葉が使われています。

 環境が変わろうとも、時代が変わろうとも決して変わることのない「お喚び声」にささえられ、育まれている喜びこそ、永遠に変わることのない依り所ではないでしょうか。二千年という新しい年を迎え、私にとって何が真実なのか、何が永遠に変わらない喜びとなるのか、今一度共々に味合わさせて頂き、喜びの多い一年とさせて頂きたいものであります。

「生死の苦海」

鹿追町 玄誓寺 住職 上本周司 (2002年6月)

 親鸞聖人は私たちの人生のあり方を「生死[しょうじ]の苦海[くかい]」とおっしゃいます。あるいは「生死海」とも「難度海」とも言われますが、これは仏教でいう分段生死[ぶんだんしょうじ]のことです。分段生死とは、分かれて段々になって起こってくるということで、一つの問題は解決したら、また次の問題が起こってくる、その問題がよっとのことで解決ついたら、また次の問題に悩まされて、「やれやれ」ということがないのです。

 先日も関西の方でお話をするご縁をいただき、お話が終わったあと、座談会というより「日頃思っていること何でもええで、気にせんと話てや」と私がいうと70くらいのおじいちゃんが話し出してくれました。

 息子によい嫁が来てくれるようにと、友人知人に頼んでいたら、こちらの心配をよそにちゃんと自分で好きな相手を見つけてくる。自分で選んだ相手なら、それが一番良いだろうと喜んでいた。ところが、今度は嫁と姑の問題が起こってくる。「そのうちに孫でも出来たらそれも無くなるだろう」と思っていると、男の孫が授かる。その孫は病気ひとつせず、すくすく育って、やんちゃになってくる。家内ともども嬉しく思っていました。

 息子夫婦は、私ら夫婦が住んでいる家の近くのアパートに住んでいますので、夕方になると、孫を連れて帰っていきます。じいちゃんばあちゃんに「バイバイ」をしなさいと孫に言うと、「じいちゃん、バイバイ」と私に手を振りますが、家内には言いません。それで、「ばあちゃんにも」と催促すると「いやだ」といって帰ってしまいます。そのあとの、家内の怖い顔といったらありません。「あれはうしろで糸を張っとるんだ」「糸を引っぱるとはどういうこっちゃ」「あれは嫁が、ばあちゃんには言わんでよいから、言い含めてるのや」とムキになって言うんです。「そんなことはないよ。この間も『じいちゃんと遊ぼう』と、そばに寄って言うたら、『じいちゃん、あっちに行け』と言いよったその時、その時の気分で変わるんだ。それより、おまえのその怖い顔、なんとかせい」と言うたんですわ。

 と、この様な内容のお話をしてくださったのを覚えています。まさしく、これが分段生死の迷いの世界の姿です。

 孫の仕種一つで、私の煩悩が踊り出すのです。そのことを孫が教えてくれたのです。気づかぬ私に遇わせてくれた孫は、まさに、仏さまだったのです。

 私の生涯は、どこまでいっても「生死の苦海」です。分段生死です。それが仏法をいただくことによって「変易(へんにゃく)生死」にかわってくる。生死は変わりませんが、その受け取り方が変わってくるのです。「生死の苦海」がそのまま「光明の広海」へと変わってくるのです。

 心も体も大切に、感謝と喜びのお念仏をご一緒に、声高らかに、お称えしながら、浄土往生の人生を強く明るく生きぬきましょう。

「逆境こそ 我 はげみなりけり」

帯広市 佛照寺 住職 藤本実円 (2002年7月)

 先日、久しぶりに夜遅くまでテレビを見ていました。面白い番組がなかなか見つからずにリモコンで次々とチャンネルを変えていましたら、NHKの放送終了の場面を2年ぶりくらいに見ました。皆さんご存じでしたか、『君が代』をバックに日章旗が映し出されているのを・・・。では、その日章旗はどんな風に映っているか覚えていますでしょうか。

 そうですね。風になびいています。

 その風になびいている日章旗を見て思い出したことがあります。もう13年前のことですが、8月に勤まる報恩講の準備を役員さんとしていたときのことです。とても暑い日でしたが、仏様の旗と書いて「ぶっき」と読みますが、その旗を揚げたとたんに強い風が吹き出し、おまけに雨までが降ってきました。慌てて木陰に雨宿りをしていた時に、となりにいらっしゃった役員さんが私に尋ねてきました。

 「若さん、仏旗が風になびいているけれど、あれ、どう思う」と訪ねられ、意味がわからず「どう思うっていいますと。」と聞き返しました。すると役員さんは更に詳しく「いやネ、今、急に風がふいて、だらんとしていた旗が勢い良く風になびいているけど、若さんは、あのなびいている旗を順風だと思うかい、それとも、逆風に見えるかい」と聞かれ、私はしばらく考えて「順風に見える」と答えました。すると役員さんは、「ほおう、どっちでもいいんだけどね」と一言。

 それでその場の会話は終わったのですけれど、そのお尋ねの答えが分かったのは、それから9年目の春でした。

 その年にその役員さんの葬儀がつとまり、残してくださった辞世の句はその時の答えのものでした。

その句は

『逆境こそ 我 はげみなりけり』

 この句を聞いたときは本当に驚きました。9年前に答えを言うことも出来たでしょうにあえて言葉で言わずに辞世の句で私に答えを伝えて下さったのでした。

「いのちのきずな」

幕別町 顕勝寺 住職 芳滝智仁 (2002年8月)

 子供が通っている小学校2年生の担任の先生が、年に一度学芸発表会の日に有休を取り陸上大会に出場していました。親の多くは、自分勝手な先生だという不満を持っていたようですが声を上げませんでした。しかし、その事が子供たちにとっては大変深刻な現実であったことが、一人の6年生の子供の「一生懸命練習した事を先生に見てもらえない、その日に支えとなってもらいたい先生がいない生徒は本当にかわいそうだよ、そしてその先生も大変だよ、だって先生も発表会を見ていないのだから褒めてあげられないでしょ。」とうい言葉によって教えられました。

 そこには、子供たちの思いに立つことができず、子供たちに対する責任を放棄した先生と親がいました。子供のいのち(人権)は、このようにして損なわれていくのだという事を教えられ、話し合いをはじめています。

 神戸の連続児童殺人事件を起こした「酒鬼薔薇聖斗」と名のった中学生が、逮捕された約3ヶ月後、拒んでいた両親との面会に応じ事件後初めて両親に会った時に言った言葉は、「帰れ、ブタ野郎、会わないと言ったのに何で来やがったんや。」ということであり、その時の少年の様子は、両親が今まで見たこともないすごい形相で睨みつけ、目にいっぱい涙を溜め心底から両親を憎んでいるようであったそうです。そしてその時の母親はなんて顔するんやろう、ギョロッと目を剥いた人間じゃないような顔、「どないしたん?何をそんなに怒っているの」と思ったとその手記に書かれてありました。少年が今この母親の思いを知らされていたなら、より深い絶望を味わっているのではないかと思います。親という仮面を被[かぶ]り続けその事に全く気づけない親と、本当の親を見失ってしまった子供の両方の、深い苦しみ悲しみのすがたがそこに有り、決して他人事だと思うことができませんでした。

 「酒鬼薔薇聖斗」と名のった少年の親のすがたに現代社会の中で親であることの難しさを教えられます。観無量寿経の中で、我が子阿闍世[あじゃせ]がクーデターを起こし、夫である頻婆娑羅王[びんばしゃらおう]を牢に閉じこめ食まで断ち、自分も剣で殺されかかり閉じこめられた韋提希[いだいけ]の、お釈迦様に向かって「われむかし、なんの罪ありてかこの悪子[あくし]を生ずる」と、我が子を「悪子」としか思えないすがたに、「酒鬼薔薇聖斗」と名のった我が子に事件後初めて面会した時「人間じゃないような顔」としか思えなかったその少年の母親のすがたを重ね見ることができます。家族が崩壊しすべてを無くした韋提希は今、「仏の教え」に遇い救われ、そのことによって阿闍世も自分の非に気づき救われます、そして母と子の「いのちのきずな」が生まれます、韋提希が念仏の教えに遇えた時の様子が観無量寿経第7華座観[けざかん]の中に「無量寿仏、空中に往立したもふ・・・光明は熾盛[しじょう]にしてつぶさに見るべからず」とあります。

 真っ暗な中にいればいるほど、射しこんだ光は烈[まぶ]しいものです、その時、韋提希は自分の底無しの闇の深さに懺悔の涙を流したことを示しています。我が子を「悪子」と言っていたが、自分はその子にとって本当に親であったのか、人間でありえていたのかと自分が問われ、韋提希の中にいのちが芽生え救われていったのです。「酒鬼薔薇聖斗」と名のった少年は面会に来た親に「何のために会いに来たのか」と問うています。両親はその問いに答えることができませんでしたが、その少年に撲殺された山下彩花ちゃんの母親が娘の死を通していのちの意味を問い続け、その少年の問いに答えています。その少年に対する憎しみの心をかかえながらも「もし、私があなたの母であるなら、真っ先に思い切り抱きしめて、共に泣きたい、言葉はなくとも、一緒に苦しみたい」と、いのちで子供に詫びてゆかねばならない、そうせずにはおれない『人間』である親の思いがその手記の中に切々と綴られています。

「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」

帯広市大正町 光心寺 副住職 桃井信之 (2002年9月)

 近年、といっても、10年ぐらい前から顕著[けんちょ]になってきたと思われることですが、テレビのニュースや新聞記事で取り上げられる事件に、非常に奇妙なものが目立ってきた、ということを感じませんか? 凶悪な犯罪は、かなり以前からありましたが、最近耳にするものは、まったくわけがわからない。いったい何を考えているのかわからない、と感じてしまう事件ばかりです。

 東京では、白昼、池袋という人通りの多い繁華街で、老夫婦が包丁でめったづきにされました。また九州では、駅の建物の内部にわざと車で突っ込み、歩いている多くの人をはねたあと、階段を駆け上がりホームに出て、列車を待っていた人を包丁で斬りつけた、という事件もありました。京都では、小学生が校庭で遊んでいたところをナイフで斬り殺されました。

 これらの事件を引き起こした犯人に共通していることは、被害者を知っているわけでもなければ、恨みを懐いていたわけでもないということです。警察による取り調べで、犯人は、どちらのケースも「むしゃくしゃしたからやった。誰でもよかった」と話しています。

 そういえば、こんな話も聞いたことがあります。以前は、金銭目的の強盗ならば、包丁や拳銃で店員を脅しても、素直にお金を出せば、殺されずにすむケースが多かった。しかし近年は、まず店員を「ズドン」と撃ち殺してから、金品を奪う強盗が目立つようになってきた、というものです。

 さて、これらの事件は何を意味しているのでしょうか。一言でいえば、「いのち」の価値というものを考えたことがない人間が増えてきた、ということになるのではないでしょうか。「やむにやまれず強盗をはたいて、他人[ひと]様のお金を盗ることはあっても、人の命まで奪うことはできない」という考え方が、全く通用しない人たちが増えているのです。「いのち」の価値や尊さを考えず、自分がいったい何をしているのかさえ全く見えていない人が増えているということです。恐ろしい世の中になってきたことです。

 ところで、親鸞様の残された有名なお言葉の中に「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というものがあります。善人が救われるなら、悪人が救われるのはいうまでもない、というほどの意味ですが、多くの方はこのお言葉の真意を誤解しておられるようです。もし世間一般でいうように、悪人が善人より優先的に救われるという意味ならば、先ほど取り上げた事件の犯人こそ真っ先に救いの対象となるはずです。

 しかし、親鸞様はそんなことをおっしゃったのでは決してありません。親鸞様が「悪人こそ救われる」とおっしゃった、その悪人とは、お念仏の鏡に映し出された、ウソいつわりのない自分の姿を自覚したものをいうのです。自分の顔を自分の目で見ることはできません。鏡に映してはじめて見ることができます。

 同様に、人間や人間社会の本当の姿は、人間社会にある鏡では決して見ることができないのです。

 ですから、私たち人間の社会を越えた世界から、私たち一人一人に「どうぞ本当の姿に気づいてくれよ」との願いから、お念仏の鏡が至りとどいているのです。そこに映ったごまかしのきかない、自分の「いのち」の正体をじかくしたとき、親鸞様は「悪人」としかいいようのない私である、と頷[うなず]かれたのであり、その自覚をもったもの、おのれの「いのち」に気づいたものこそ本当の救いの対象であると、頂かれたのです。

 この殺伐[さつばつ]とした現代社会に生きていかざるをえない私たちは、いつ何時、業縁[ごうえん]によって先に述べたような事件を引き起こすかわからない「性[しょう]」をお互い持ち合わせているのです。

 自分の本当の姿を映す鏡を持つことが、今ほど必要な時代はありません。今こそ、真の自分を自覚する鏡の必要性を、家庭や学校教育の中で教えなければならないときである。そう思えてなりません。

「命のつきる時」

清水町 寿光寺 副住職 増山孝伸 (2002年10月)

 今年の始め小学校時代のクラス会がありました。一年生の時に担任だった先生も招き、とても懐[なつ]かしく楽しいひとときを過ごしました。

 そんな一週間後、私のもとに友人が亡くなったという知らせが届きました。しかもその友人はクラス会に出席するはずの同級生だったので大変驚きました。「仕事があるため出席できません」と連絡が来ていたので、クラス会に出席できなくても元気に働いているのだろうとばかり思っていました。

 クラス会の幹事に連絡を取り確認すると、その同級生は末期の大腸ガンの治療のため、昨年札幌での仕事を辞め、帯広の病院に入院していたとの事でした。こんなことならもう一年早くクラス会を開けばよかったなと話をしていました。

 亡くなった友人はもし自分が死んだらお寺に同級生がいるからお経をあげてもらいたいと母親に言っていたそうです。卒業後、二十年以上も会っていませんでしたが、よく私が僧侶であることを覚えていてくれたなと思いました。

 しかも学生時代はおとなしく物静かだった彼が自分の残り少ない命を感じ、お葬式のことまで考えていた時の辛さはいったいどんな気持ちだったのかと考えた時、お経を上げながら何とも言えない切ない気持ちになりました。

 生きると言うこと、今、生きていることは当たり前のことではなかったんだよ、自分の戴[いただ]いたこの命を本当に精一杯生きているかい、この世のご縁がつきると言うこと、命が終わると言うこことは、人ごとではなく自分のことだったんだよ。彼の遺影[いえい]はまさに命がけで私にそう語りかけてくれているかのようでした。