ここでは、仏教をおこされました、
お釈迦様の歴史を簡単に振り返ってみましょう。
お釈迦様のご生涯 お釈迦様は、紀元前4世紀(定かではない)に インドの北辺、現在のネパール付近のカピラヴィスツ(迦毘羅城)に 住んでいた釈迦という種族の国があり、 その釈迦族の、シュッドーダナ王とマーヤー夫人の間に誕生されました。 本名は、ゴータマ・シッダールタと言われます。 聖母マーヤーは、出産の時期が近づいたある日、 故郷に帰ってお産をするべく旅に出られ、 その途中のルンビニーの花園で、しばしの休憩をとられた時に、 お釈迦様を出産されたという。 ときに、4月8日のことであった。 仏教徒では、この日を『花まつり』として、 白い象に乗った、お釈迦様の像に甘茶をかけ お祝いをします。 お釈迦様の誕生にまつわる記事として、 『四方七歩の宣言』がある。 それは、誕生されると同時に七歩あゆまれ、四方に向かって 『天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之』 (てんじょうてんげゆいがどくそん さんがいかいくがとうあんし) と宣言されました。 「天上天下唯我独尊」とは、 ひとりよがりのうぬぼれといった意味に思われるが、 そうではなく、それぞれにとって自らが一番尊いものである。 誰かと比べて尊いのではなく、そのままの自分の尊さを言うのである。 そう、これを見てるあなたこそが尊いのですよ。 また、「三界皆苦我当安之」とは、 三界(欲界・色界・無色界)はみな苦の世界である、 しかし、私がこの世界を救わずにはおられない。 という意味です。 そして、「四方」に言われた意味は、 直接的には東西南北の四方をさしてるが、 その意味は、十方なのであり 空間的にあますことなくという意味である。 最後に、「七歩」歩まれたということは、 生まれながらに六道(界)をすでに超えた聖者であることを 意味するのです。 六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六界をさし、 これらの六界は苦悩に満ちた迷界のことを言います。 この宣言に天は感動して甘露の雨を降らしたという。 これが、甘茶をかける所以である。 お釈迦様が誕生されてから7日後、生母マーヤー夫人は亡くなり、 父の愛を一身にあつめて幼少時代を過ごし、 将来の王になるべく文武諸芸を学び、 聡明な素質にいっそうの磨きが掛かり、 目をみはる勢いで上達されていかれました。 結婚して十年くらい経ち、恵まれた環境にあったが、 真実の幸福とは何か?と悩み続けられ、 ある夜、妻子や家族への愛の絆を断ち切り、 社会的地位や名誉や財産などもふり捨てて、 出家の道へ入られました。 たとえ五欲{(五感がもたらす欲) 【色欲・声欲・香欲・味欲・触欲】 また【財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲】ということもある。} が満足しても、それは一時的・部分的なものに他ならないとし、 世俗的な幸福を否定されたのである。 ときに、お釈迦様二十九歳の時と伝えられます。 恵まれた環境の中で、何不自由なく暮らしていたお釈迦様が なぜ出家をされたのか? それには『四門出遊』(しもんしゅつゆう)という出来事が 関係してきます。 それは、ある日従者を連れて城より出ていかれました。 東門にさしかかった時、白髪の老人に出逢われました。 自分はいま若さに満ち青春を謳歌しているが、 やがて自分も老いることを考えられました。 南門にさしかかった時、病に倒れている人に出逢われました。 自分はいま健康に生きているという誇りを持っているが、 自分もいつ病にかかるかもしれないという不安にかられました。 西門にさしかかった時、葬儀の列に出逢われました。 自分はいま青春を謳歌し、健康でいるが、 やがて自分のそれ自体さえも、 根底から一瞬に打ち砕かれてしまう事に気づかれ 心を乱されました。 最後に、北門にさしかかった時、一人の出家者に出逢われました。 その姿に、これこそが自分の進むべき道であると決意し 帰っていかれました。 人間そのものが、老病死の無常そのものであり、 世間的な幸福が無常転変(つねに移り変わっていく)である。 それなるが故に、人生は苦であることを認知され、 出家の道を求めていかれたのです。 やがて、お釈迦様は、悟りに達していかれましたが、 それはあらゆる苦行によるものではありません。 王宮による歓楽の生活(肉体的享楽生活)が 人生の幸福ではないとされ出家し、 また、出家による禁欲の生活(苦行生活)も 真の悟りへの道ではないとされていったのであります。 つまり、そのどちらにも片寄らない『中道』(ちゅうどう)という 仏教独特の実践的態度を見いだしたのである。 中道とは、 中間とか真ん中とかいう平面的な理解によるものではなく 両極を排捨止揚する絶対真理そのものへの 立体的な理解にもとづく行的主体の中道とでもいうべきもの。 【かなり難しい言い回しで申し訳ありません。】 悟られて(仏陀になって)最初に、ムリガダーヴァ(鹿野苑)にて 五人のひとに説法をしました。 それを、『初転法輪』(しょてんぼうりん)と言います。 その後の、お釈迦様はまさに伝道の毎日を過ごされました。 その人に合わせたお話、 それは「対機説法・応病与薬」(たいきせっぽう・おうびょうよやく)といい、 機(相手)に合わせて説き、 病気に合わせた薬のように与えてゆく。 悟られてから四十五年間、相手をえらばず 時をきらわず伝えていかれました。 しかし、 お釈迦様、八十歳 二月十五日 沙羅双樹のもとで静かに入滅(亡くなること)されていかれたのである。 そして、最後の最後まで 「自らを灯とし、法を灯とし、他を灯とするなかれ。 自らに帰依し、法に帰依し、他に帰依することなかれ」と 亡くなった後の拠りどころまでも 伝えていかれたのでありました。 |